ノーベル賞の憂鬱
今年のノーベル化学賞が吉野彰先生に授与されることが決まった。
本当に素晴らしいことだと思う。
日本人として誇らしいことだとも思う。
その一方で自分は憂鬱な気分にもなった。
一つは、自分の研究ではノーベル賞を取ることなんてできないという絶望感からだ。
そしてもう一つは自分の研究を続けることができることができるのかという将来に対する不安からだ。
具体的に言うと、これからも研究費を獲得できるのかという不安と、研究成果を出し続けるのかと言う不安だ。
言うまでもなく研究費がなければ研究はできない。
これまでは節約してなんとか研究を続けてきたが、いつまでもつのか分からない。
その一方で研究技術はどんどん進歩しており、そしてそれらの技術のほとんどは設備にしろランニングコストにしろべらぼうにお金が必要である。
研究費を節約してできる研究は、将来に対応するための方法ではなく、その場しのぎの方法でしかない。
そして研究成果が出なくなれば研究費は獲得できなくなる。
研究環境が不安定なのに対し、安定して増えていく研究以外の仕事も不安の一つである。
大学では組織改革や教育改革が進められているが、それに関する仕事が顕著に増えてきた。
しかもそれらの改革に本当に効果があるのが疑問なものも少なくない。
そんな疑問を抱えながらの改革がうまくいくはずがない。
そしてそんな仕事に時間を費やすことで、研究の時間が少なくなっていくのが悲しい。
日本のノーベル賞受賞者はこぞって日本の大学の研究費不足を訴えているが、現場からするとよく理解できる話である。
しかし、研究費のほとんどは国民の税金なので、我儘を言ってはいけない。
研究費はともかく、せめてもう少し安定した研究環境がほしい。